借入金林業の破綻(「地域木材産業の形成を目指して」より)・竹内公男氏(新潟大学)


大日本山林会発行の「山林」誌2月号で竹内公男氏の論文を拝見しました。
表記、借入金林業の破綻の項は、「地域木材産業の形成を目指して」と題する論文の一項目となっています。
なるほどと頷かせるものがあり、引用させていただきたいと思います。
氏にはかつて、佐渡林業実践者大学のセミナー講演をお願いし、「佐渡共和国」(佐渡森林王国)をテーマに有益な講演をしていただきました。
全文をお読みになりたい方は、山林会にお問い合わせ下さい。


「筆者は大学に籍をおく者として地元新潟県の森林関係会議ににたびたび招かれる。その中には、『森林・林業・木材産業振興プラン」というような今後の展望を描くものから、「公社の分収林経営改善検討会」のような深刻なものまであるが、後者の深刻な問題の解決に資するアイデアも出せないで、前者のような構想を描くのにいささか後ろめたさを感じている。
 地方自治体公社の分収林事業は資金を持たない林家や集落の人工林造成と山村の雇用創出に大きな役割を果たしてきた。
 そのことに感謝する人達は多数いるほずであるが、そういう人達の声は聞こえてこず、地方自治体に過重な財政負担が残されて大きな問題となっている。
 分収林は公共的林業経営の代表的形態として長い歴史があるし、分収育林が登場したときはとても優れたアイデアだと考えられた。分収林が広く採用された時期のことはよくわからないが、分収育林が登場してきた当時の筆者の意識としては、若齢のスギ林への投資が一般の投資のような利益を生むものと考えていたわけではなく、資金に余裕がある都市の人々が一般の投資対象にならない若齢人工林の保育に資金を提供するのは、投資利益を狙うというより森林を育てる過程に興味を持っているためと理解していた。分収育杯が広がっていった背景にはそういう空気があったと思う。しかし伐期を迎えたのに元本さえ返還できないことから、今では国有林が詐欺まがいの商法をしたと批判されている。どこで歯車が狂ってしまったのであろうか。地域の木材資源を育成するという視点はどこかに消えてしまい、いつからか人工林は投資の対象になるという話にすり替わってしまったのではないか。
 分収育林方式は当初は地方の公有林で広がった後に国有林が遅れて参加したのだが、国が大々的にやったということでその責任が問われている。この様子は、以前の奥地天然林の大規模開発がもたらした国有林への不信感を再燃させているように思われる。筆者はそのことが国内林業一般に対する不信感につながらないことを祈るのみである。
 五〇年前や三〇年前に分収契約を交わした当事者達は当時の物価上昇傾向に準じて木材価格も上昇すると考えたであろうし、木材価格だけが数十年前の水準に逆戻りするとは誰も思い及ばなかったであろうが、現実にはそれが起こってしまった。この事実を受け止めれば、借入金で始める林業経営は資本の論理のもとでは成立しないことがはっきりLたといえる。仮に、育杯投資をして数十年後に大儲けをしたという事例が出たとしても、もはやそれは資本の論理に基づく投資効果として説明できる結果ではないであろう。
 ここで、われわれは何を拠り所として数十年にわたる育林活動を継続できるのだろうかという困難な問題に行き着く。
 筆者は、育林という長期にわたる資金と労働の投下にどのようにして意義を見出すか、育林という行為から資本の論理を切り離すことは可能か、林業につきまとう時間という難点を克服する方法はないかと思案する日々を過ごしている。未だに解決を見通せる発想には至っていないが、育林活動を単純に環境的視点で割り切るのではなく、あくまで木材資源の視点から拠り所を求めたい。
 分収林事業に関していえば、山には人工林という木材資源が立派に残っているのだ。不成績造林地や手入れ不足人工林の問題を考えると立派にというにはいくらか躊躇する点があるが、国内の木材資源育成ならびに山村振興事業としての役割を再認識し、そこへの投下資金は林業経営のための貸付金ではなく木材資源育成のための拠出金として見直すべきである。そして、初期の目的を完遂させるために、国や自治体は人工林の保育のために継続的に一定の経費を支出すべきであり、分収林の当事者は立派な人工林にするための努力を払うべきである」


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